冬合宿・北岳(3,192.4 m)

日程:1996年12月30日〜1997年1月2日 メンバー:HT(CL)・OS(SL)・MO・MK・MA                          

記録:
96年12月30日;

 早朝3時、事務局にほぼ定刻に全員集合。大垣ICから高速に入る。順調に走り、韮崎ICで降りると、経験者の記憶をたどりながら夜叉神への道を捜す。桃の木温泉から先、心あたりの道がどこも工事通行止め担っている。一瞬、皆のなかに不安がよぎるが、『通行止め迂回』の看板を見落としていたことがわかり、目的の夜叉神の森駐車場へと進む。
 既に駐車場は半分以上埋まっており、ナンバープレートを見ると、関東、関西、東海と(山梨以外の他県者が多く、年末年始をここで過ごそうという物好きな仲間に親近感が涌く。
 身支度を整え、ザックを担ごうとすると、なれない重さによろけてしまう。われながら大丈夫かしらん・・・・・・・と不安に思う。
 夜叉神の通行止めのゲートを抜け林道を歩き始める。地図でもわかるとおり、登山口までは長い長い林道と、いくつものトンネルである。ウワサには聞いていたが、あまり気持ちのいいものではない。長いものでは1km以上あるのでは、と思われる薄暗いトンネルをなぜかヘッドランプも点けずに(ダスノガメンドクサカッタ?)、ときには水溜りに足をとられながら、手探り足探りで通り抜けた。トンネルを一つ通り抜けるたびに、目の前の景色は雪と氷が増えていった。
 林道から鷲ノ住山への登山口に入り、急な坂を下り、野呂川発電所のちゃちな吊り橋を渡った。しばらく林道歩きが続くと、吊尾根への登山口に着いた。大休止をとり、いよいよ登山道に入る。歩き出すと雪はほとんどないものの、濡れた落ち葉の下が凍っていて歩きにくい。しょうがないので、大事をとって私と棚橋さんは早々にアイゼンを着けた。アイゼンに枯れ葉が刺さって、枯れ葉のカンジキを履いているようだった。HT氏の足の調子が良くなく遅れ気味になってきたので、池山小屋まで先に行ってテントの準備をすることにして歩いた。
 池山小屋周辺は笹薮と樹林に囲まれたかなり広い開けた場所で、なかなか雰囲気のよいところだった。既に何パーティーかテントを張られており、私たちも早々設営した。HT氏も到着して一段落すると、夕食の準備にかかった。本日は山海鍋。ホタテ、エビなどの豪華な食材が次々と登場した。毎度のごとく、食の豊かな大垣労山‘・・・いや、‘奥美濃部会’の延長線上の宴が始まった。
 「だいじょうぶかなぁ〜、夜ねむれるかなぁ〜。」という合宿出発前の心配に、「だいじょうぶ、寒くて寝られないから、朝まで起きてれば。」という説得力のない、変な説得を受けてシュラフにもぐり込んだ。ねむれた人、眠れなかった人それぞれだったが、私はといえば前夜の寝不足と疲労のおかげで、O屋氏のイビキもものともせず熟睡しました。(いえ、そんなにうるさくなかったですが。)

‘96年12月31日;
 朝3時起床の予定がなぜか5人もいて誰一人も起き上がることができず、(さては飲みすぎか!?) 3時20分頃やっと起き出す。朝食を取り、テントを撤収して6時に池山小屋を出発する。

 小屋付近はアイゼンなしでも歩ける程度であるが、私は早めに着けた。しばらくゆるやかな登りが続くが、雪が深くなってきたりで全員がアイゼンを着ける。だんだんと傾斜がきつくなり、森林限界まで来ると視界が開けてきて、前方に北岳山荘らしきものが見えた。右手の方には地蔵岳のオベリスクらしきものが見える。
 岩尾根を登りきってボーコン沢の頭まで来ると、そこからしばらくはゆるやかな稜線である。前日以上によい天気で、絶好のシャッターポイントがいくつもあった。写真を撮りたいS氏と足の不調を訴えたK嬢は、後ろからゆっくり来ることにして前後分かれて歩く。前方には北岳バットレスが見え、腰にジャラジャラ登攀用具を下げた人達とすれ違った。<こんな雪の中、スゴイナ〜>と勇ましく見える。
 八本歯のコル付近にはハシゴが二箇所あり、アイゼンでの通過には細心の注意を払った。八本歯のコル下に荷物をデポし、全員揃って北岳山頂へと向かった。吊り尾根との分岐から先はかなり風も強くなり、冬山らしさを感じる。(そんなのんきなこと言ってる場合じゃないけど、やっぱりこーでなくっちゃ。)
 北岳頂上の看板の前でみんなかわるがわる記念撮影を行い、デポしたところまで戻った。八本歯のコル下から北岳稜線小屋へは、トラバースルートを使った。途中はしごがかかっているところがあり、所々アイスバーン状態にもなっていたので、ここもまた慎重に通過した。北岳稜線小屋に着くと先程のトラバースルートでの疲れがドッと感じられた。小屋には先客がおり、中でテントを張っていて狭いので、外でテントを張った。さすがに稜線は風も強く、前日の池山小屋とは違ってかなり寒くなりそうだったが、ピンと張り詰めた空気の中で、北岳や富士山を染める夕陽はとてもきれいだった。
 大晦日の夕食のメニューはチゲ鍋。今回の食事の中で一番重量があり、においもきついものなので、これを持っていた人は早く片づけたかっただろうと思う。ご苦労様でした。
 夕食を食べながら天気予報を聞いていると、1日夕方から崩れそうだということだった。予定では翌日、間ノ岳・西農鳥岳までピストンし、稜線上でもう一泊のはずであったが、「明日は池山小屋まで下ろう。」というリーダーの判断が下された。白峰三山の一座しか登頂していないので、心残りのメンバーもあったかもしれないが、北岳だけでも登頂できたので、私にとっては十分であった。
 レコード大賞、紅白歌合戦といかにも大晦日という気分のラジオ番組を聞きながらも、3,000mの稜線上にいるんだという不思議さを感じながら、赤か白かどちらが勝ったかもよくわからないままにシュラフにもぐり込んだ。

‘97年 1月 1日;

 明け方近く、バタバタという音で目が覚めた。夜中じゅうけっこう音がしていたものの、一層風が強まりテントがしなっていた。寝ている顔の上にテントがかぶさってくるほどであった。テントの外へ見回りに行く人、しなるテントを内側からささえる人。とても眠っていられる状態ではなかったが、夢うつつの中でそのまままた、眠ってしまった。
 夜が明けてもあいかわらず風は強く、朝食を取った後も外には出られずにいた。7時の日の出に合わせて、北岳稜線小屋から中白峰の方向の斜面を少し登って初日の出を拝んだ。夜中あれだけの強風にもかかわらず天気は大変良く、富士山の横に並ぶように登ってくる今年一番の太陽は、きのうと同じものなのに特別なもののように思われた。
 テントに戻り、撤収し身支度を整えて池山小屋へと出発した。前日の吊り尾根分岐から小屋までのヒヤヒヤするルートを今度は逆方向にたどって歩いた。強風がなかなか収まらず、本気で耐風姿勢をとらなければいけないとこが数回あった。
 八本歯のコル、ボーコン沢の頭と通過して、森林限界のあたりで最後の富士山を入れた記念撮影を行うと、森林帯の下りに入った。まだ日の高いうちに池山小屋付近に到着できたので、いつもよりていねいにテントを設営した。翌日は林道に向かうだけという余裕も手伝い、早くから宴会へと突入した。シチューとカレーという二食分の食料を消費し、「もうけっこう。」というほど食べた。昨晩に引き続きハウスのゼリーを調理実習のように作ったのが、(作ったといってもかきまぜただけ。)おいしかった。21時ごろ、シュラフに潜り込んだが、深夜風も少し出て、みぞれが降り出したので、予定を変更して下ってきたのは正解だったのではと思った。

‘97年 1月 2日;
 朝4時に起きて朝食を摂る。テントを撤収して出発の準備をしている間にさっきまで降っていた雪が止んだ。今回は天気の合い間に、いいタイミングで行動時間があたった。
 小屋を後にして歩き始める。食料がほとんど消費されているので荷物は軽いはずであるが、さすが4日目、疲れも出てきてそんなにペースがあげられない。昨晩までの風がよほど強かったのか、往きに見なかったような所を倒木がふさいでしまっているところが何箇所もあった。迂回してどんどん下っていくと、もとの登山道を見失い、ヤブこぎでもするような格好で登山道へ戻った。登りの人も、下りの人も、もとの登山道を探して交差しているような状態であった。笹薮を掻き分け、足元を滑らせながら、あるき沢橋へとたどり着いた。ここから林道をしばらく歩き、野呂川発電所から鷲ノ住山まではいけども行けども全然着かないような気の遠くなる登りであった。 鷲ノ住山入口にたどり着くと少しホットしたが、ここからの林道がまた長いこと長いこと。暗いトンネルをいくつか抜けてやっと駐車場に着いた。
 夜叉神の駐車場には“ミニスカートにパンプス”みたいな格好の人がいたので、<こんなに寒いのに何しにこんあところへ来るんだろう。>と自分のことは棚に上げて思った。
 帰る途中、芦安の温泉で垢を落とし、来た時と同じ韮崎ICから中央道経由で大垣に着いた。天気が崩れたとは言いながらも、最後まで雪をかぶった富士山がくっきり見えていたことが印象的であった。                                             記録:MA