鎗ヶ先 寺谷左俣遡行

やりがさき(965.6m)  てらんだに

 

日  程1997年9月14日(日)

メンバーOS( CL), KO(SL), I夫妻, MK, ET(記録)

天  気/曇り/晴れ

地形図2万5千分1: 美束

行  程大垣6:00=市瀬P7:00-不動滝8:10- 鎗ヶ先11:05/12:05-市瀬P13:35 =もりもり村=大垣16:00

 

 OS氏と私はすっかり雨男ならぬ雨コンビとなってしまったようだ。予定より1時間ほど遅れて車を走らせる。揖斐川右岸堤、落合の森を左に見るころには土砂降りとなる。「ふもとに着くころには雨は上がるだろう。」とのOS氏のご託宣の通り、美束 市瀬の教員アパート前の駐車場に着くと雨はぴたりとやんだ。
 先月、SI顧問に電話で誘われたとき、「これから槍ヶ岳ですか?」と聞き返した。浅学非才の小生、鎗ヶ先は記憶になかった。春日村といえば幡隆上人、上人といえば槍ヶ岳の開祖、鎗ヶ先と槍ヶ岳と結びつくのではないかと山名の由来をあたってみたが接点は見つけられない。わかったのは美束の人々は天が嶽(テンガタケ)と呼んでいることぐらいである。東京で学生をしていたころ、同人誌の編集と印刷に使っていたマスコミ研究会の同室に民族研究会があった。夏の研究合宿に春日村へ行くという。私が岐阜出身だときくと、どういうところだとたずねられた。国見岳スキー場の行き帰りにしか通ったことのない私は答えに窮して、「岐阜のチベットだ。」と答えた記憶がある。今再び山に登り始め、美濃の山村にも興味を持つようになったのは、学生の時のこの記憶が深層にあるからかもしれない。
 ハーネスを付け、ヘルメットをかぶり沢登り完全装備体勢をとる。坂田氏が車を止めさせてもらうお願いに市川氏宅を訪れ、ついでに谷の名前をおばあちゃんに尋ねるがどうも要領が得られないようだ。あきらめて出発してしばらくすると、「テランダニ、テランダニ」と大きな声がする。振り返るとお嫁さんと思われる顔が林の間から見える。寺谷と書いてテランダニと読む。南の登山道のある尾根を隔てた宮谷(ミヤンダニ)と対をなしている。どちらも村の共有林なのであろう。

 幸い谷には濁りがない。KO氏は先頭を行くのがすっかり板に付いている。渓相は「滝つぼ」9月号の記録とOS氏の遡行図にゆずるとして、それにしても立派なトチノキの林とおびただしい栃の実である。「春日村史」によれば、領主であった戸田氏は用材確保のため森林の伐採を禁じた。また栃の実は住民の重要な食料源であったため、栃山を共同所有し、日を決めて一斉に栃の実拾いを行ったという。また、春日村では、山林の売買にあたって、トチノキの周囲一坪の土地トチノキとともに残す「栃林権」という不文律が戦前まであったとのことである。「栃」の語源は「土地の木」ではないかと考えたくなる。小津谷の木地師集団のトチノキの占有を阻止するための対抗手段であったかもしれない。それとは全く逆の見解が高木泰夫先生(高校の恩師)著「奥美濃 ヤブ山登山のすすめ」に見ることができる。美束を含め春日村一帯が木地師の村だったとのことである。養老 不破を経てこの谷に入り、長者平に一大集団を作って栄えたが、樹林が尽き没落、離散したという。だが、この大木を見ると、にわかには信じられない。もしそうであったとしても千年も前の話であろう。どちらにせよ、もし、今これらの木を切ろうとすれば稲葉顧問や坂田氏は体を張って阻止するにちがいない。
 MY女史の記録にある「トチノキA」らしきものは見つかったが、「トチノキB」は見あたらない、修験道が修行するのに適当な滝の横に不動堂がある。MY女史の記録に出てきてもおかしくない。予定していた谷よりだいぶ北の谷に入り込んでしまったのであった。そんなことは誰も疑わず、源頭部に達し立ち休憩していると雨が降り出してきた。あわてて岩陰に入り雨具を着る。ぬかるんだ斜面に足を取られながら登る。稜線に出てヤブを少し南進すればすぐ「鎗」の穂先のはずである。が、なかなか頂上に達しない。やがて緩い下りとなりここで谷を間違えたことに気ずく。後で調べてみると、鎗ヶ先と865.3mの小ピーク、美束の人が呼ぶ種本山(タネモトヤマ)の間の854.7mの鞍部に出たもようである。雲とヤブで視界はきかず今どこにいるかよくわからない。途中だだっ広い小尾根に入り下りになり、あわててルートを修正する。OS氏と地図を見ているとMK女史が雨に濡れたマップケースをハンカチで拭いてくれる。きっと良い奥様になるであろう。2万5千図で見ると谷は目が痛くなるほど複雑に入り組んでいる。奥美濃の沢に入るときはやはり5千分の1の森林基本図を持って入渓したほうがよいかもしれない。しかもA0250円。地形図よりお値打ちである。プロトレックの高度表示に頼りすぎたのもルートを外した原因であるとOS氏の言。
 稜線も急になり山頂に近ずいていることがわかると安心する。やっとの思いで頂上に到着。三角点タッチ。雨もちょうど止む。潅木の間から東面の上ヶ流(カミガレ)の茶畑がわずかに目にはいる。「上ヶ流からの景色はスイスのグリンデルワルドのようだ。」とOS氏がいう。そうなるとこの鎗ヶ先はアイガーということになる。が、TS夫人が聞けばきっと「大切な思い出が壊れる。」とお怒りになられることであろう。
 いつから奥美濃部会では500ccのロング缶が標準となってしまたのであろうか、申し合わせたようにKO氏とOS氏はそのロング缶のビールを取り出し祝杯を上げる。わずかばかりのウイスキーもまたたく間に胃袋に消える。I夫妻はOSさんに食べさせて上げたいと手作りの焼き豚とズッキーニと豚肉のトーバンジャン炒めをご持参され、私も御相伴にあずかる。ピリリと辛くビールが一層うまくなる。うらやましい年金生活、私も早くこうなりたいものだ。だが、私がそうなるころにはきっと年金者山学会が結成され、そこに移ってくれと言われそうである。
 下山予定のルートを登ってきたようで、雨で足許も悪く、尾根の登山ルートを下ることにする。登りでチョンボし、SI顧問も下りのルートを外したのを皆知っており、尾根の分岐では喧喧諤諤の議論となる。途中、木陰で小休止、MK女史が川浦谷に行きたいという。私も長いゴルジュ帯を泳ぎ中心で遡行する「山女くら部」ならぬ「岩魚くら部」構想を打ち明け、笑わる。が、若干名の賛同は得られたものとの感触を得た?。
 ヒノキ林を抜けると明るい水田に出る。たんぼ道を歩いていると畑仕事をしているおばさんが気軽に声をかけてくれる。雨はすっかり上がり、晩夏の明るい日差しに貝月山に至る稜線が黒々と輝いて見える。その谷にもトチノキの巨木があった。ハーネスやそれにぶら下がっている色とりどりのカラビナやシュリンゲは最新のアクセサリーになってしまったようだ。

(記録:ET)

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